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最高裁判所第三小法廷 昭和41年(あ)1788号 判決

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

被告人本人の上告趣意および弁護人広井陽一の上告趣意について(弁護人大野正男の上告趣意補充書は、期限後提出にかかるものである。)。

所論に鑑み、職権をもって調査すると、原判決には、次に記載する理由により、判決に影響を及ぼすべき審理不尽の違法、ひいては重大な事実誤認のあることを疑うべき顕著な事由があるので、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。

一、原判決が是認した第一審判決は、被告人が「昭和四一年一月三日午後一時三〇分頃、伊東市内の伊東温泉競輪場内特別観覧席便所下附近において、入場者の混雑を利用し大塚勇(二三才)の後方より同人のズボン右ポケット内に右手を入れて金員を窃取しようとしたが、同人に発見されて目的を遂げなかった」との事実を認定し、証拠として、(イ)証人大塚勇の当公判廷における供述、(ロ)被告人の司法警察員に対する供述調書(昭和四一年一月七日付)、(ハ)被告人の検察官に対する供述調書、(ニ)司法巡査作成の現行犯人逮捕手続書を掲げ、被告人を懲役一〇月に処している。また、原判決も、原審弁護人の控訴趣意中事実誤認の論旨に対し、被告人が検察官の取調べに対してほゞ第一審判決の認定事実を自白していること、被害者大塚勇(警察官)の被害顛末についての証言は、多少記憶に不正確なところがあり、同人の作成した現行犯人逮捕手続書に記載された事実と不一致点があるにしても、「ポケットの中に手を差し入れたところを押えた」という点についての証言は極めて明瞭であって、その真実性を十分に保障することができること、被告人に同種前科がなく、家庭の事情、生活状態等が仮に弁護人主張のとおりのものであっても、被告人の犯行を否定する事由とならないこと、などを挙げて論旨を排斥し、結局前記各証拠の信用性を肯定して、被告人の控訴を棄却しているのである。

そこで、以下この点について検討を加えることにする。

二、本件記録によると、被告人は、昭和四一年一月三日伊東温泉競輪場内で大塚勇に逮捕された直後から犯行を否認していたが、同月六日付裁判官の質問調書、同月七日付司法警察員に対する供述調書、同月一四日付検察官に対する供述書では、それぞれ自白供述をしたものの、同日付で起訴された後は、第一審公判の冒頭から一貫して本件犯行を否認していることが明らかである。

ところで、検察官は、第一審公判における論旨の中で、本件は被告人が偶発的に犯したものと思われる旨述べているのであるが、被告人の前記各自白供述をみると、わずかに昭和四一年一月七日付司法警察員に対する供述調書(前記(ロ)の証拠)に、犯行の動機らしいことがあらわれているのみで、それも同調書の記載によると、被告人が犯行に及んだのは、要するに、車券を買った残金が少なくて心細かったのと、人ごみに押されたのを幸いにぶつかった人のズボンのポケットから金をすり取ろうとした、というにすぎないのである。

しかしながら、被告人の昭和四一年一月四日付司法警察員に対する供述調書の記載、第一審公判廷における証人山本乙子の供述を総合すれば、当日、被告人とその妻山本乙子の両名は、二人で合計九千円ぐらい、そのうち被告人が二千四百円ぐらいの金を持って遊びに来ていたというのであって、被告人が手持ちの金を全部使ったとしても、なお競輪場内で被告人を待っている妻が相当額の金を所持していたことがうかがわれるから、残金が少なくて心細かったという犯行の動機は、にわかに納得することができない。また、右昭和四一年一月七日付自供調書の記載によると、被告人は、競輪場へ第四レースの始まる直前に入ったというのであり、しかも相手のズボンのポケットにいくら金が入っていたのか見ていないので判らなかったというのである。第一審公判廷における証人大塚勇の供述および司法巡査大塚勇作成の現行犯人逮捕手続書の記載によると、同人は、当日現金一万一千二百一円をバラでズボン右側ポケットに入れていたが、第一レースの車券を買ったとき以後、金の出し入れをしていないことを認めているばかりでなく、犯人は、ズボンのポケットが上に着たジャンパー式カーデガンで覆われているのを(同人の証言によれば、ジャンパーの下にカーデガンを着てポケットを覆っていたという。)まくり上げて手を入れてきたというのである。もしそうだとすると、被告人は、たまたまぶつかった相手のズボンのポケットに金があるかどうかも判らないのに、いきなり上衣をまくりあげてポケットに手を入れたことになる。被告人がすりの常習者であるとか、相手のポケットから金が見えていたとか、ポケットの中に金のあることを知ったとかいう事情があったのであれば格別、右のような状況のもとで偶発的に犯行に及んだというのは、いかにも不自然に感ぜられるのである。さらに、記録によれば、被告人はこれまで同種犯罪の前科がなく、昭和三九年一二月に賭博で取調べを受けたことが一回あるが、これも悪質なものとは思われないし、今日まで妻と共かせぎをして少しずつ貯金もするなど、漁師としてとくに問題もなく過して来たものであること、本件当日も正月三日の休みを利用して、妻と二人で稲取の自宅から伊東、熱海方面に映画を見に遊びに出かけて来た際、ついでに競輪場へ立ち寄ったものであって、妻を近くに待たせて第五レースの車券を買っている間の出来ごとであること、などがうかがわれるのであって、当時はたして被告人が本件犯行に及ぶような事情のもとにあったかについて、疑いがないとはいえないのである。

このように、被告人の自供内容そのものについても疑問があるのであるが、被告人は第一審公判廷で、昭和四一年一月六日の勾留質問以後犯行を自供した事情について、その前夜伊東警察署の人に「いつまでぐずぐずやっている。相手は警察官である。そんなことをしていると、下手すると懲役一、二年はもってゆかれる。」旨言われたため、やったと言えば早く帰してもらえると思って自供したのだと弁解している。記録によると、大塚勇が被告人を逮捕した当時、競輪場内で被告人を待っていた妻を取り調べたとか、被告人を立ち会わせて実況見分を行なった形跡も認められず、また、裁判官の質問調書に添付された司法警察員作成の送致書意見欄に「現行犯人として逮捕されながら事実を否認する等悪質であり、改悛の情が見られないので厳重処分されたい。」旨の記載があること、被告人の司法警察員ならびに検察官に対する各自供調書(前記(ロ)、(ハ)の各証拠)では、被告人や妻が当時どれだけの金を所持していたかについて何もふれていないこと、などが明らかである。これらの点に、被告人が前述のように疑わしい内容の自供しかしていないことなどを考え合わせると、捜査官としては、被害者が現職の警察官だということで、被害者の申立ないし被害者作成の現行犯人逮捕手続書の記載をうのみにし、被告人の弁解に耳を傾けようともせず自白を求めることのみに終始し、被告人もまた、本件が警察官に対する窃盗未遂の事件であるところから、取調官に迎合して安易な自供をしたのではないかという疑問を生ずるのである。

要するに、本件記録に照らし、原判決の維持した第一審判決が罪証に供している被告人の自供調書(前記(ロ)、(ハ)の各証拠)については、その信用性に多くの疑いがあり、原判決のこの点に関する検討は、必ずしも充分でないといわざるを得ない。

三、次に、同じく第一審判決が罪証に供している前記(イ)、(ニ)の各証拠、すなわち第一審公判廷における証人大塚勇の供述と、同人作成の現行犯人逮捕手続書の記載を検討してみることにする。右各証拠によれば、「右被告人の右手がズボンの右ポケットの中に手のひら半分まで入って来たところを、ズボンの上から左手で押えるようにしてつかまえた」旨の、第一審判決認定事実にそう供述ないし記載があるので、もしこれが信用できるものであれば、被告人がいかに犯行を否認しようとも、この証拠によって犯行を認定し得ることになる。しかしながら、被告人の自供の信用性について前述のような疑問があり、ひいては被告人の弁解もあながち排斥し得ないとなると、右大塚勇の証言と、現行犯人逮捕手続書の記載の信用性についても、あらためて検討を要するように思われる。

右現行犯人逮捕手続書の記載によると、大塚勇は伊東警察署の巡査で、本件当時、伊東競輪場内におけるすり犯捜査に従事中であったようになっている。しかし、同人の証言によると、同人は昭和三八年八月、警察官になると同時に警察学校に入り、翌三九年七月末に卒業して伊東警察署に配属された後は交番勤務などをしていたが、刑事係ではなく、これまですり犯人を検挙した経験もなく、当日は正月競輪の警戒に応援に来ていたというのであるが、すり専門の警らをしていたわけではなく、私服で来て第一レースの車券を買ったりしており、被告人の手がポケットに入って来たという直前も、競輪新聞を右手に持って見ていたというのである。右のような状況からみて、少なくとも同人がすり犯捜査に従事中であったということは、甚だ疑わしいといわなければならない。要するに、本件は、すり犯捜査に従事中の警察官が、予め犯人の行動を監視していて、犯人が金品をすり取ったとか、ポケットに手を入れたとかいう事実を確認してから逮捕したという事案ではないのであって、原判決も、「極めて一瞬のことであり、被害者として全く予期しないできごとであった」と説示しているが、それだけに、大塚勇の証言や、同人作成の現行犯人逮捕手続書の記載の信用性を検討するについては、その点をよくよく考慮に入れて、慎重に判断する必要がある。本件記録によれば、右二つの証拠の間には、原判決も否定し得ないような不一致点がみられるばかりでなく、被告人は、左手を差し入れたという自供をしているのに、大塚勇の方は、犯人の右手が入って来たのを左手で体をひねるようにして押えたといっているのであって、両者の言い分がくい違っており、被告人と大塚勇とが、当時どのような位置関係、体勢にあったのか、必ずしも明らかでないし、もともとズボンの右ポケットというが、そのポケットは脇ポケットであるか、うしろポケットであるかも明らかでない。しかも、記録によれば、本件当日は競輪場の入場者が多く、場内が相当混雑していたうえに、第五レースの車券売りを閉める直前のことであったため、売場の窓口附近は押し合うような状況であったことがうかがわれるので、人ごみの中で押されているうちに、被告人の手が大塚勇の右手、あるいはズボンのポケットのあたりにふれるようなことも、あり得ないわけではなかったと思われる。とにかく、瞬間的な出来ごとだけに、大塚勇の方にも錯覚や誤解などが絶対になかったとは言い切れないのである。

四、これを要するに、第一審判決が証拠として掲げている被告人の司法警察員ならびに検察官に対する各自供調書、大塚勇の証言、同人作成の現行犯人逮捕手続書の記載の信用性については、なお前記のような多くの疑問点がある。これらの点につき十分検討を加えることなく、これをたやすく信用して、第一審判決の認定事実を是認した原判決には、判決に影響を及ぼすべき審理不尽の違法があり、ひいては判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があることを疑うべき顕著な事由があるに帰し、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認める。

よって、論旨に対する判断をするまでもなく、刑訴法四一一条一号、三号により原判決を破棄し、同四一三条本文により本件を原裁判所である東京高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 下村三郎 裁判官 田中二郎 裁判官 松本正雄)

(裁判官 柏原語六は、退官)

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